【レポート】安住の地「してない方のこちらから:Reクリエーション」

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2018年5月19日に、京都を拠点に活動する劇団「安住の地」をお招きし、本堂を舞台にした。公演を開催しました。演目は『してない方のこちらから:Reクリエーション』。結婚をモチーフに生き方の選択を描いた作品です。
今回の企画は、芝居と座談会の2部構成。芝居を通して語りかけてくる制作者や演者の声に耳を傾け、それを見た人たちのコミュニケーションから生まれる何かを、再びみなさんに還元していく、そんな場を作りたいと思い企画しました。有り難いことに、これまで西蓮寺とは付き合いのなかった県内外の方々にもお越し頂き、20代から80代までの様々な年代が混じり合う空間となりました。寺や劇場では、互いに見知らぬ者同士が、匿名の関係性のまま語り合うという現象が起きます。そうした体験は、日常の役割や肩書きを忘れさせ、自分自身を本来の等身大の姿に引き戻していきます。今回は、劇団「安住の地」の脚本家である私道さんにレビューを寄稿して頂きました。

寺×劇場 人が集う場が 私を育む

初めまして。「安住の地」という団体で演劇をしています、私道かぴと申します。本名は別にあります。折角こうして紙面で皆さんの時間を頂戴することになったので、できるだけ正直に話したいと思います。
私は26歳の京都在住の会社員です。日中は出版社で月刊誌の編集をしています。終業後や休日に脚本を書いたり、稽古をしたりして演劇を作っています。日中に働いて、休みをつぶして給料をはたいて演劇を作るのは正直苦しいです。あほみたいだな、と自分で思うこともあります。でも続けるのはなぜか。
それは、日中の仕事以上に、もしかしたら誰かのためになるかも知れない、と思うからです。私が毎月作っている月刊誌よりも、毎日書いている脚本の方が、もしかしたら誰かを救うかも知れない、と思うからです。ばかみたいですよね。でもこう思うのには理由があって、それは、実際に私が演劇に救われたことがあるからです。
正直にレポートを書こうとすると、どうしても最初からお伝えすることになりそうです。それでも、その果てにこうして西蓮寺での催しがあったということは、きっと間違っていなかったんだと、あの日、この土地に来て思いました。
少し長くなりそうですが、話はきちんとこの西蓮寺まで行くので、しばしお付き合いいただければと思います。

演劇・人・邂逅 

個人的な話で恐縮ですが、私が演劇と出会ったのは中学の頃です。大劇場で有名な人が入れ代わり立ち代わり大きな声で演じていく様に、ただただ圧倒されました。「楽しそうだなあ。こんなことが職業として許されている人がいるんだ。」いいなあ、と思いました。それから数年後の高2の夏、一枚のチラシと巡り合います。神戸の劇場が、夏限定で高校生の演劇プロジェクトを立ち上げるという旨の募集でした。「我が強い人が集まるんだろうな…怖い。でも、行ってみたい」。演劇経験もなく、演劇部でもない私が初めて演劇に手を出しました。実際行ってみれば周りは演劇部ばかりで、しかも予想通りといいますか、ものすごく我が強い人ばかりでした。でも、予想外だったこともあって。
それは、関わっている講師の方、ボランティアさん、劇場スタッフが、みんな驚くくらい親切で、その上申し訳ないほど優しかったことです。
一度想像してみてほしいのですが、初めて演劇する人間が舞台に立つと、それはそれは悲惨なことになります。まず、大きい声を出すことが恥ずかしい。上手く立ち回りたいけれど、そんなことできる器量も技術もなく、理想と現実のギャップに苦しむ。しかし我が強いので主張だけは一人前にある…。そんなめんどくさい高校生たちを、まわりにいる人たちは、叱るでもなくあきれるでもなく受け入れ、できるようになるまでねばり強く、ただただ一緒にいて見守ってくれたのです。それは高校生だった私たちにとって、親戚や先生以外で、初めて大人と密に優しくしてもらった経験でした。
あの時からもうすぐ10年。ちっぽけな私の演劇史は、この「誰かに無条件に許され、優しくしてもらった」という経験が核になっています。そして、今回西蓮寺で上演し、座談会でお客さんと交流させていただいたとき、あの時と近い感覚がふと蘇ったのです。

寛容を探し求めて

そもそも西蓮寺で公演をすることになったのは、大学時代に仲良くさせてもらった小西くんとの縁があったからです。環境が近かった時期は1年もなかったのですが、何かの折には会って色んな話を聞きました。そこにはもちろん、ここ西蓮寺のことも含まれていました。誰でも進路に悩むことはあります。言ってしまえば毎日悩んでいるのかも知れません。でも、実際に自分も迷っていた彼が、こうして「誰かが悩みを抱えてくるところ」で働いているということを、私はとても嬉しく思います。そういう人こそ、人の気持ちを察することができるのではないか、と思うからです。また、そういう人のいるお寺には、同じく「人の気持ちを察して悩むひと」もまた多く集まるのではないかと思うのです。
今回の公演は、昨年12月に京都で初演があり、彼はそれを見に来て「ぜひこれを西蓮寺で上演してほしい」と直々にオファーしてくれました。それは、「西蓮寺に集う人に何か響くものがあるのではないか」と彼が思ったからではないかと思います。
その考え通りといいますか、上演後の座談会では皆さんが「個人的な悩み」を少しずつ打ち明けるようなお話がたくさんありました。しかし、そのお話以上に印象的だったのは、その話を聞いている、同じグループの皆さんの顔でした。そこには「個人的な悩みを打ち明けても大丈夫だ」と思わせる優しい雰囲気があり、無条件に受け入れる姿がありました。
それは、私が10年前に演劇に触れた際に感じた、「誰かに無条件に受け入れられた」という感覚にとても近いものでした。
「ああ、彼は香川で、ここ西蓮寺で、こういった場所を作ろうと日々働いているだな」と思いました。

○理想の共生社会へ

今回の「してない方のこちらから」という演目をお寺で上演するという試みは、正直に言いますととても怖いことでした。それは、「年齢によって意見の分かれる題材」だったからです。ご覧になられた方はご承知かと思いますが、登場人物は20代後半の男女です。3人とも結婚はしていません。もっぱら友人の結婚式の余興を任されてばかりです。それでも楽しくやっていたある日、その内の一人が「みんな、本当におめでとうって…思ってる?」と尋ね、そこから各人が隠していた心情を吐露し、関係が変化します。タイトルの「してない方」には様々な含みがあって「(結婚)してない方」だったり「(決断)してない方」だったりと様々な意見をいただきました。どれも間違ってはいません。実際、私も脚本を書いた当初より随分考えが変わり、どれも正しいような気がしています。

ただ、この香川公演を通して思ったのは、もしかしたらこの話は「(否定)してない方」だったり「(肯定)してない方」なのかも知れない、ということです。そして、そのどちらも正しいのではないか、ということです。
私たちの世代は「ゆとり世代」と言われています。「結婚しない」ことにもさまざまな理由があり、子どもだったり仕事だったり、それにまつわる悩み事も多くつきまといます。
「結婚したくないから、しないんだ」なんて、上の世代の方から見たら、それこそ自分勝手な、どうしようもない人間に見えるのだろうな、と思うこともあります。「結婚」に選択肢がなかった祖母や祖父を見てきているからこそ、そういった意見もよくわかります。ただ、理解できなくても、お互いを否定せずに生きていくこともできるのではないか、と私は思うのです。

○芸能文化の向かう先

 今回、特に若い方には題材について意見をたくさんいただきました。しかし、やはりと言いますか、上の世代の方からは「題材が若い人向けだ」というご意見もいただきました。
 また、帰り際に「1回来ただけじゃだめだよ、こういうのは」という言葉を頂戴したことから、懲りずに「じゃあ次は、ここ西蓮寺に愛着のある幅広い世代の方が、喜んでくれるような題材はなんだろう」と考え始めているところです。
 その場に居合わせた人が「自分が無条件に受け入れられた」と思えるような演劇体験のために、まだまだ勉強していきたいと思います。

安住の地 私道かぴ