コラム:仏教は何を問題とするのか(後編)

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仏教は何を問題とするのか

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退屈する生き物

國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』(太田出版)では、私たち人間は根源的に避けられない退屈という病を抱えているという数々の哲学者の指摘を紹介し論じています。ドゥッカについて考えるにあたって、この本を参照してみようと思います。

「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋の中でじっとしていられないがために起こるのだ」(パスカル)

ふつう私たちは、「退屈」と「暇」という言葉を同じような意味で、特に意識することなく使います。しかし、著者はこれらの言葉を明確に分けて議論を進めます。

  • 暇:「なにもする必要のない時間」で、その人のあり方には関係のない客観的な時間のこと。
  • 退屈:「なにもすることがなくて不快だ」という主観的な感情や状態。

よく「現代人は忙しい」と言われます。現に90代半ばに差し掛かる私の祖父でさえデイケアに行ったり通院したりと、毎日やるべきことに迫られて忙しそうにしています。著者がいう「暇」とは、そうした日常生活のなかに存在するやるべきことが無く、単に何もしなくてもいい時間のことを指します。一方で「退屈」というのは、暇な時間をもて余して、不快に感じている状態のことです。

元来ひとは、必要な食い扶持を確保するために田畑を耕し働いてきました。もし、生きるために必要な食い扶持を既に持っているなら、働かずにそれで満足していればいいはずです。しかし、どうやら人はそれができないようだとパスカルは言います。つまり人は常に何かを求めている、言い換えれば、「退屈」してしまう生き物であり、それは決して振り払うことができない病のようなものである、というのです。

例えば、せっかくの休日を無為に過ごしてしまうと「時間を無駄にしてしまった」と感じてしまうことがあります。本を読んだり勉強したりして何かを身につけたり、旅行に出かけるなどして有意義な時間の使い方をしていないと、何かもったいない気がしていまいます。

そう考えると、私たち人間は「退屈」に耐えられない生き物であると言えそうな気がします。たとえ生きていくのに十分な食料と安全が確保され、何かをする必要がなかったとしても、それでは満足できずに、何か退屈をしのげるもの、言い換えれば、意味や充足を感じられるものを、つい求めてしまいます。たったそれだけのことが、パスカルの考える人間の不幸の原因です。

ただ興味深いことに、私たちは本当に問題とすべきことから目を背けてしまいます。私たちが注視しなければならないのは、欲望の原因(退屈してしまうこと)なのに、「大勢に認められたい」とか「あれが欲しい」というように、欲望の対象をどうやって手に入れるかに目を向けてしまうのです。

退屈してしまうことから目を逸らし、退屈をしのぐ方法を問題視してしまうと、次は、退屈をしのぐために没頭できる趣味や仕事、社会的な役割をいかに見つけるかが喫緊の課題となってきます。いわゆる生きがい探しです。

人が欲するのは『不幸な(退屈な)状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわせてくれる騒ぎ』である。(パスカル)

ここでのポイントは、退屈とは、私たちが意図的に引き起こしているものではなく、勝手に心に生じてくる現象(避けられない病のようなもの)のことでした。

この点が、仏教が示す「苦」つまり「思い通りにならない」という人間観と重なっているように感じてなりません。

35歳で正覚を得た(悟った)釈迦の最初の説法は、四諦八正道と呼ばれるものだったそうですが、平たく言えば、私たちが経験する苦しみは、私たち自身が(偏ったものの見方によって)作り出したものであり、そのものの見方を改める道筋と言えます。

さまざまなしがらみや世間の常識が色濃かった昔と比べると、現代はかなり自由になったと言われていますが、私たちは依然として「退屈」という己の傾向性に囚われ不自由なままであると言わざるを得ません。

2500年前から現代へ

会社、家庭、暮らしのいたるところに顔を覗かせる悩みのタネは、確かに私たちにとって解決したい問題です。しかし、もし仏教にその処方箋を求めるならば、まず、本当の問題はどこにあるのかという視点の転換が必要です。

現代人は終わらないタスクに追われ、家庭で、会社で、社会の一員としての役割を果たしているけれども、その実、そこに空虚さを感じ、満たされない思いを抱えているのではないか。先の國分氏は「暇」と「退屈」という概念を念頭に置きながら、現代社会が抱える問題の一端をそのように論じています。

およそ2500年前、恵まれていたはずの生活に見切りをつけ、出家を志した一人の人間が抱えた問題意識は、現代を生きる私たちの生とどのように交わるのか。ここから数回にわたって、「仏教は何を問題とするのか」をテーマにコラムを掲載していきます。

筆者

小西慶信

小西慶信 / Yoshinobu Konishi
西蓮寺 所属。
1992年の冬に生まれ。最近お寺の中にひっそりと編集部を立ち上げ、仏教講座や『 i 』というマガジンの企画・制作を担っています。仏教は勉強中。

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