コラム:仏教は何を問題とするのか(前編)

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仏教は何を問題とするのか

先日「web3.0は限界集落を救えるのか」というネット記事を目にしました。なにやら最近流行っている革新技術に関する記事らしく、それ自体にはあまり関心がなかったのですが、タイトルの後半部分の「救う」という部分が気になりました。「そういえば山あいに住む高齢者が医療にアクセスできないという悩みを抱えているというニュースを、以前目にしたことがあったなー」なんてことを思いながら、いったいこの革新技術は限界集落をいったい何から救うのだろうと、ふと疑問に感じたのです。

そもそも救いというものが成り立つのは、そこに苦があるからです。苦のないところには救いはありません。昨今、カルトに関する話題が世間を賑わせていますが、こちらの事情も知らずに「あなたのためだから」と一方的に言い寄ってくる人には、カルト宗教に限らず、押し付けがましさや不快感を感じるものです。それは苦を実感していないのに、救いなるもの押し付けてくるからなのかもしれません。

仏教が私たち現代人にとっての処方箋であるならば、それはどんな病に効くのでしょうか。

転迷開悟としての仏教

仏教の目指すところは迷いを転じて悟りを開くこと(転迷開悟)だと言われることがあります。ここでいう迷いは「苦」と同義で、つまり仏教とは「苦」の解決をその目的に据えているということになります。では、その「苦」とは何を指しているのでしょうか。

言うまでもなく、私たちは働くにしても、生活をするにしても、他者と関わり合いながら生きていかなくてはなりません。しかし、それゆえに理不尽な問題やさまざまな苦しみに直面します。自分にはどうしようもないことで他人から責められたり、望まない何かを押し付けられたり、ふつう生きていれば自分にとって不都合なことは絶えません。できることなら、そういう悩みは解決するか、悩みの種と関わらないでいられることを望みます。

では仏教は、念仏や坐禅などの仏道実践によって、こうした問題を解決できるのだろうかという疑問が生じます。しかし、当然ながら、仏教の実践に身を投じたところで会社の人間関係や家族仲が良くなるなんて、現実的に考えられません。もし本当に解決できるというなら、とっくの昔にみんな仏教徒になって、毎日座禅や念仏に勤しんでいるはず。では、「苦」を解決することが目的であるはずの仏教が、現実の問題には対処しない。この矛盾はなぜ起こるのでしょうか。

これは仏教の「苦」という概念に対する姿勢・考え方に起因します。仏教が説く「苦」とは、もともとのインドの原文(パーリ語)ではドゥッカ(dohhuka)と記されています。これが中国や日本(つまり漢字の文化圏)に流入した際に「苦」という訳が当てられたわけですが、この「苦」という言葉は、私たちがふつうイメージする「つらい」とか「苦しい」という意味とは異なり「不満足に終わりがないこと」「虚しさ」「思い通りにならないこと」という意味のことを指します。

ちなみに、初期の西洋の経典翻訳者(1970年代以前)は、一般的にパーリ語の dukkha をsufferingと翻訳していたといいます。しかし後の翻訳者は、sufferingでは duḥkha という用語の翻訳が限定的すぎることを強調し、duḥkha と未翻訳のままにするか、anxiety、stress、frustration、unease、unsatisfactorinessなどの用語でその翻訳を明確にすることを好みました。多くの現代の翻訳者は、unsatisfactorinessという用語を使用してdukkhaの微妙な側面を強調しています。

(wikipedia 苦 (仏教) より)

では、「苦(ドゥッカ)」という表現を用いて仏教が問題視している「不満足に終わりがないこと」「虚しさ」「思い通りにならないこと」とは、具体的にどのような事態を指しているのでしょうか。

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筆者

小西慶信

小西慶信 / Yoshinobu Konishi
西蓮寺 所属。
1992年の冬に生まれ。最近お寺の中にひっそりと編集部を立ち上げ、仏教講座や『 i 』というマガジンの企画・制作を担っています。仏教は勉強中。

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