vol.17_特集「閉じる作法」

布教しない仏教マガジン『 i 』/編集部の活動
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*以下は、巻頭言の一部抜粋です。

友人が、中部地方のある村を訪れたときの話を聞かせてくれた。そこは人口が1000人に満たない小さな村で、訪問時にたまたま村議会の議員選挙が行われていた。移住して議員になった40代の男性が、赤字続きのスキー場を閉鎖し、新たな観光資源の開発に予算を振り向けるべきではないかと訴えていたそうだ。

しかし、彼は2期目を目指したその選挙で落選することになった。新たに構成された議会は年配の方々が中心となり、赤字事業であるスキー場を継続することになった。スキー場に代わる観光資源の構想が不透明であること、またスキー場の運営によって生まれている村内の雇用を守ることがその理由らしい。

確かにスキー場に代わって、外からたくさんの人を呼び込める観光コンテンツの開発が容易でないことは想像がつく。いくら予算を投じたからといって、その額に見合っただけの成果が得られる確証はどこにもない。不確かな決断にはいつだって不安を覚えるものだ。しかし延命を目的とした赤字事業の継続に未来があるとは思えない。そのことは年配の議員の方々も十分に承知しているはずだ。にもかかわらず、なぜ存続を選んだのだろうか。もしかすると、かつてのスキーブームの栄華が強く記憶に残り、あの賑わいがいつか戻るのではないかという、淡い期待があったのかもしれない。あるいは事業の撤退を「敗北」と捉えてしまう感覚があったのかもしれない。もしそうだとするならば、これは単なる採算の問題として片づけられるものではないのかもしれない。

この話を聞いて以来、私たちは長らく続いてきたものを、どのように「閉じていくか」についての言葉や倫理を十分に持ち得ていないのではないかと考えるようになった。
こう考え始めたもう一つのきっかけがある。

(中略)

いま私たちは、「続くこと」を前提として設計されてきた制度や営みのなかで、それがもはや続かなくなっている現実を、十分に受け止めきれなくなっているのではないかということである。

私たちが暮らす社会では、「続けること/継承すること」が美徳とされる傾向が強い。その一方で「辞めること/引退すること/幕を引くこと」は敗北や諦め、時には不謹慎と受け止められることさえある。その結果、存続させることを誰かに強く期待し、その役割を半ば押し付けるような場面も、現実には存在する。それも、維持・成長・拡大・発展だけを視界に捉えてきた結果、終わりを引き受けるための言葉や倫理が、社会のなかで極端に乏しくなっているからではないだろうか

私たちはどのようにして終わりを引き受けるのか。地方に暮らし、衰退や縮小を日常の風景として生きる一人として考えたいと思った。(文:小西慶信)

目次

▶︎寄稿
  「8月をもって、当店は閉店します」(元書店員:波多野 七月)
  閉じられたものの言葉(真宗大谷派教学研究所助手:中村玲太)
  母とAI——自然への祈りとしての「閉じる作法」(弔いとテクノロジーの人類学者:高木良子)
  (総論)「閉じる作法」にいま必要なもの(編集部:私道かぴ)
▶︎連載
  私道かぴの日々人其々
▶︎企画
  コラム:自然になるまで(編集部:小西慶信)
  西蓮寺通信
  読書日和

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