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立場が変われば正しさも変わる。頭では分かっているつもりでも、ついつい私たちはこの事実を見落としてしまいます。そもそも対話とは、相手の主張に耳を傾けその内容を正しく理解しようとする努力が当事者双方に求められます。つまり、一方が精一杯向き合おうと努めても、他方が自分の主張を押し付けるだけでは、対話は機能しません。対話に希望が見出せないとき、私たちはその事態とどのように向き合えば良いのでしょうか。
こうしたわかりあえない事態に直面したとき、実は私たちは何か見落としている(無いものとされている)ものがあるのではないか。そういった「わかりあえなさ」について、考察するシリーズの「立場編」。昨年の春に始まった「わかりあえないからこそ話しあうんだよ、とはいうものの…」シリーズの最終回です。
おすすめ記事2選
・寄稿「信仰のわかりあえなさ」
信仰を持つ人はしばしば「私が信じているのは普遍的な教えだから、人類共通なのだ」などと主張しますが、そういうタイプに限って《宗教間対話》が苦手だったりします。もしかすると、「わかりあえるはずだ」を前提にしない方がよいのかもしれない。ここではそんなお話を《宗教間対話》というトピックを取り上げながら考えていきます。
・対談「わかりあえないときの感情との向き合い方 〜カウンセラーの視点から〜」
自分の考えを一方的に押し付ける人と押し付けられる人。一見、両者は加害者と被害者に見えます。しかし冷静に考えてみると、その関係性はそんなに単純なものではないのかもしれません。わかりあえない当事者の関係性が複雑だったとき、そのわかりあえなさに傷ついてきた人は、どう折り合いをつければいいのでしょうか。