不定期に募集しております。
現在は募集しておりません。
日常がすっかり変わってしまった2020年。大変な日々を過ごされた方も多かったのではないでしょうか。人に会う機会がすっかり減ってしまい、心細い気持ちを抱えている方もいらっしゃるかもしれません。人の集まる場所に出かけたり、集まったりできなくなったことで、特に「新しい人と出会う」機会はほとんどなくなってしまいました。
本来は、人や、異なる価値観と出会える場所であるお寺。そんなお寺として、今この状況で何ができるのか。考えた末に、この度「文通企画」を始めることに致しました。年齢も、住む場所も、育ってきた環境も違うであろう人たちが、1通の手紙を通して交流できる場をつくろうと思います。文通相手の暮らしや住んでいる場所の天候、今考えていることなどに思いを馳せながら言葉をつづるのは、なんとも豊かなひとときではないかと思うのです。
文通にご興味のある方は本ページからお申し込み下さい。お申し込みがいただいた方の中から、西連寺で文通相手をお選び致します。あなたの住所やお名前、プロフィールが相手の方に知られる心配はありません。ひと月おきに、相手の方に書いたお手紙を、西連寺宛にお送りください。それをお寺から文通相手の方に郵送致します。
メールやLINEですぐにメッセージが送れるこの時代に、紙とペンを使って、少し時間のかかる言葉
のやりとりをしてみませんか。もしかしたら、会ったことのない他人だからこそ話せることがあるかもしれません。
文通の流れ
【1】申し込む
「文通をしてみたい」と思われた方は、応募フォームに必要事項をご記入の上西連寺までご連絡ください。文通名(ペンネームや本名)や趣味など、簡単なアンケートにお答えいただきます。
なお、文通相手の特徴を指定することはできません。
【2】文通相手が決まる
ご記入いただいた応募フォームを元に、西蓮寺で文通相手を決定いたします。お相手が決まりましたら、文通相手のお名前と簡単な情報*(年齢、性別、趣味など)をお伝えします。 その際、お二人のうち最初にお手紙を書いて頂く方を決定し、ご連絡します。お相手の方は、最初のお手紙が届くまでしばらくお待ちください。
(*共有を希望された場合のみ)
【3】手紙を書く(最初にお手紙をおくる方)
文通相手宛にお手紙を書いてみましょう。場合によっては、お相手の情報が何もないこともあるかもしれません。そんなときは、自分の毎日のちょっとした習慣や、好きなもの、大切にしていることなどを書いてみて下さい。どんな些細なことでも構いません。
【4】西連寺へ送る
お手紙が書けたら、文通相手用のお手紙を「定形郵便物(長さ14cm~23.5cm・幅9cm~12cm)」の大きさの封筒に入れ、84円切手を貼ってください。この封筒には、宛名や差出人名などは書かないでください。最後に、その封筒を一回り大きい封筒に入れ、切手を貼って西連寺宛にお送りください。
毎月25日までに「西連寺編集部」宛にお送りいただくようお願いいたします。
【5】手紙が、西連寺から文通相手の元へ送られる
期限までに西蓮寺編集部に到着したお手紙は、なるべく早くお相手に発送致します。発送完了通知などは特に行いません。
【6】西連寺から文通相手の手紙があなたの家へ届く
しばらくするとあなたのお家にお返事が届くでしょう。じっくり読んで、これから始まる文通ライフに思いを馳せながらお返事を考えましょう。
【7】お返事を書き、西蓮寺へ送る
お相手の手紙をじっくり読めたら、お返事を書きましょう。どんな人なのか、どういう気持ちで文通をしているのか、興味はつきませんが、どうかお相手に失礼のないように。【4】の手順に従って、西連寺編集部に宛てて25日までにお返事をお送りください。
注意点 (※必ず予めすべて読んだ上でお申し込みください。)
- 文通それ以外を目的としたやりとり(勧誘など)はご遠慮願います。
- どのような場合でも、文通相手の個人情報を西連寺からお教えすることはございません。
- 個人情報は適切に管理し、文通企画以外に使用することはございません。
- 文通内容に関して、西蓮寺では一切責任を負いません。
- 失礼がないような言葉遣いや相手の方を尊重した内容を心掛けて下さい。
- 文通相手の方とのやりとりでトラブルに発展した場合でも、西連寺として一切責任を負いません。
- 郵便物の配送中の紛失などの事故に関しましては、西蓮寺では責任を負いかねます。
- 一度につき一通以上の手紙を相手の方にお送りすることはできません。
- 相手の方に、荷物など手紙以外の物をお送りすることはできません。
- 「返信がこなくなった」などといった場合でも、こちらから文通相手の方に連絡を取ることはできかねます。また新たに文通相手を見つけたい場合は、西連寺にご連絡ください。
- 封筒に切手が貼られていない、または料金不足の場合は、お相手の方にお手紙をお送りすることができません。ご注意ください。
文通を続けられなくなったときには…?
- 辞めたい場合は…?
諸事情により返事を書けなくなった場合は「返事を送らない」という方法で文通を終えることができます。特に西連寺にご連絡いただかなくても構いません。 - 返事が来なくなった場合は…?
相手の方が事情により文通を終えられた可能性があります。そういった場合でも、こちらから文通相手の方に連絡を取ることはできかねます。また新たに文通相手を見つけたい場合は、西連寺にご連絡ください。
書き手(1)
〇〇さま
はじめまして。わたしは△△△△と申します。
いま、わたしは親元を離れ一人で暮らしています。
毎日単調な日々を送っていたのですが、
新型コロナウイルスのせいで、在宅ワークが増え、
外に出かけることもはばかられてしまいました。
一人暮らしの身なので、家で過ごす時間が増えるにしたがって、
人と話す機会が減ってしまい、油断していると、
誰とも話をすることなく1日を終えてしまうこともあります。
今になって思えば、
あのころの単調な毎日も仕事に遊びにと
それなりに充実した日々だったのかと、懐かしく思えます。
そんなおりに偶然この文通企画を目にしました。
実は、私はこれまで文通というものをやったことがなく、
ましてや、顔の見えないお相手と手紙のやりとりをするのは
初めての経験で、少し緊張しています。
こちらはだんだんと暖かくなってきました。
もうまもなく桜も開花するそうです。
〇〇さんはいかがお過ごしですか?
気が向いたときにお返事いただけたら幸いです。
△△△△
書き手(2)
△△△△さま
お手紙どうもありがとう。私は〇〇と申します。
私は**県に住んでいます。
こちらはようやく最近になって暖かさを感じはじめたところです。
幸い、私が住む地域はコロナの感染者は多くありません。
△△さんの暮らす地域はきっと多いのでしょう?
どうかお気をつけてお過ごしくださいね。
わたしは毎年この季節になると、
仲の良い友達4人で海の近くにある公園に出かけてお花見をしていたんです。
でも、残念だけど、今年は我慢しました。
最初は、「外だし、マスクも付けていれば大丈夫じゃない?」って
4人で話していたんだけど、ニュースを見ているとだんだん不安になってきてしまって。
それで、不安に思っているってことをそれとなく伝えると、
「また来年いこう」っていう話になったので安堵しました。
ほんのささいなことだけど、伝えるのにとても気苦労したの。
「心配性だなあ」なんて思われるんじゃないかとか、
仲間はずれにされちゃうんじゃないかとか、
そんなことばっかり考えてしまって。
人間、いくつになっても悩みはつきないものなのね。
そういえば、あなたのお手紙を読んでいると、
娘のことを思い出しました。
私の娘は、東京で一人暮らしをしているのだけど、
かれこれ一年以上会えていません。
帰ってきて欲しいけど、もし万が一のことがあったら大変ですもんね。
引きこもりがちな生活が続くのは、
なかなか大変だと思うけど、
どうかお身体を大事にしてくださいね。
〇〇
『「役割を終える」が難しい』
コロナ禍になって、手紙を書く機会が増えた。
前から手紙でやりとりをする人はいたけれど、最近はとくに、普段LINEで連絡を取っている人や、しばらく連絡していなかった人にも手紙を書き始めている。
「なぜ5分もあればスマホで終わらせられることに、わざわざ便箋を出し、書き、封をし、ポストに出しに行く手間をかけるのか。無駄ではないのか」と思わなくもないのだけど、何と言うか、時間の感覚が丁度いいのだ。
目まぐるしい毎日の中で、「これが届いている頃にはまた状況が変わってきているとも思うのですが」というような、時間軸を一枚かんだようなやりとりが心地いい。中には返事に「久しぶりに手紙を書いてみて、たのしい」といってくれる友人もいて、そのおもしろさを分け合えたようで嬉しくなる。
一方で、ある種の難しさも痛感している。
手紙で書くと、どうしても「重さ」を伴ってしまう気がするのだ。
それだけ時間をかけてたどり着いた言葉の重みもあるし、便箋や切手ぶんのお金もかかっているし、読んだ後も物として残ってしまう重さもある。
そして、やはり一番は「書き文字」ということだ。
手紙は、下書きでもしない限りは思いのままつらつらと書き連ねることになる。話がすぐ変わってしまったり、結局何が言いたいのかよくわからないまま終わったりすることもある。
生っぽいのだ。
文字の揺れには、感情がありありと出てしまう。
文字を書いている時の心の持ちようとか、中には身体のさみしさがにじみ出ることがある。
「必ず伝えなければいけないことがあるわけではないのだけど、きっと何かしらやりとりをしたかったのだな」という手紙の時はとくにわかる。
そういう時は、この紙に手の平を添えて、気持ちを綴っていた人の気配をつよく感じる。
現在、手紙をつかったある企画を準備している。
それは、「コロナ禍で人と話す機会が減ってしまった高齢者の方がたくさんいる」という話を聞いて、「それならば、ソーシャルディスタンスを保ったままやり取りできる方法をつくれないか」と思い考案したものだった。
簡単に言えば、見ず知らずの人と手紙でやりとりできるような仕組みをつくろう、という企画だ。かつて盛んだった「文通」ならば、PCが苦手な方でも参加しやすいのではないかと思ったのだ。
どうせなら、普段なかなか交流しない若い世代の人にも参加してもらいたい。そう思って、企画書をつくって20名ほどの若者に意見を聞いた。
すると、驚くことが起こった。
企画書に対するコメントが、みなおもしろいほど似通っていたのだ。
企画自体は「おもしろそう」としつつも、気になるところがあるという。
それは、「返事がこなかった時どうすればいいの?」というものだった。
「手紙が返ってこなかった時に悲しい」「心が折れそう」といった意見が、とくに若い人の間で多かったのだ。
私は、この答えにびっくりした。手紙というのは、「返事が来る」というのがやはり大きなポイントだったのだ。
しかし、少し考えて、はて…と思った。「返事が来るかわからないから、手紙を出さない」というのは、少しおかしな話ではないか?
なぜなら、手紙には絶対に終わりがあるからだ。
一昔前なら、雑誌の後半の「読者のページ」に「音楽が好きな人、お話ししましょう!」と、自分の住所を書いている人が大勢いた(今では信じられないが)。そのやりとりには、いつかは終わりがくるだろう。つまり「返事が来ない」というのも込みで、文通のおもしろさなのではないかと思ったのだ。
これは、今の若者が文通や手紙に慣れていないから出て来た疑問なのだろうか。なんせメッセージに「既読」が付く時代だ。読まれているかどうかもわからないのであれば、落ち着かないのも無理はないのかもしれない。それとも、世代が異なる人とやりとりする行為自体に不安が大きいのか。
色々な説が考えられるが、私は最近の手紙のやりとりを思い出し、ひとつ思うことがあった。
それは、「自分の役割が終わった」ということを受け入れる怖さなのではないか、ということだ。
手紙のやりとりを続けていると、中には明らかに手紙の感じが変化している人もいる。
それまで頻繁にやりとりをしていたのになかなか返事が来なくなったり、返事の内容もそっけなかったり、文字に力がなかったり、忙しいのだろう、もうやりとり自体随分していない人もいる。
そんな中で感じるのは、「もう自分は必要ではなくなったのだな」という気持ちだ。
返事がこなくなるのは、役目を終えるのと似ていると思う。
その人とやりとりをした時間、楽しかった思い出がある。でも、返事がないと言うことは、それを相手はもういらないと言っているのだ。これは確かに、堪えるものがある。まだ続けたいこちらの気持ちはどうしたらいいのだ、という思いになる。
でも、仕方ない。そういうものなのだろうと、受け入れるしかない。
私がその人の中での役割を終えたのだ。
…と思いながらも、まだぐるぐる考えてしまうこともしばしばだ。役割を終えるのは難しい。
でもそれはある意味、「人生のある時は必要とされていた」というしるしでもある。
手紙は、そんな関係性を可視化する大切な道具でもあるのかもしれない。
文通企画を考えながら、思わぬ人生の鱗片にふれた出来事だった。
(もしもしからだ ⑰)より
(Texted by 私道かぴ)