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2023年5月下旬、長野県で起きた立てこもり事件に関する報道が連日続いていた。この事件を起こした男の供述の中にあった「ぼっち」という言葉が、なぜだか耳にこびりついて離れなかった。
事件が起きたのは、5月25日の夕方ごろ。散歩中の女性二人が突如として刃物で命を奪われ、駆けつけた警察官二人までもが犠牲となった。犯人は「二人が話しながら散歩しているとき、自分のことを『独りぼっち』とバカにしていると思った」と供述している。また、男の母親は「大学時代に『独りぼっち』と言われていじめられ、そのことばに過剰に反応するところがあった」と話しており、かつて男は自身の勤務先でも、店を手伝っていた学生らが雑談で「東京では、ぼっちだね」と話すのを聞いて、「俺がぼっちとばかにした」と激高するなどのトラブルを起こしていたことが分かっている。
彼は、いかにして孤立してしまったのだろうか。
だが興味深いことに彼の生活は、社会から疎外されたものではなかった。彼は両親とともに暮らしており、仕事にも就いていた。人との接触が極端に断たれていたわけではなかったのだ。それにもかかわらず、「ぼっち」という一言は、彼の内に潜む深い痛みを激しくえぐり出したのだ。
彼の耳には「ぼっち」という言葉が、どう聞こえたのだろうか。
わたしにも思い当たる節がないわけではない。確かにここにいるはずなのに、自分だけが見えない存在にされている感覚。誰かの言葉や視線から受ける無言の拒絶感。外見上は孤立していないにもかかわらず、その存在が承認されていない虚しさが「ぼっち」という言葉と結びつく。家族がいても、同僚やクラスメイトがいても、ぼっちという言葉に胸を締め付けられることは想像に難くない。
では、「一人ぼっちではない」「わたしには◯◯がいる」という安心感は、どんな条件が揃ったときに成り立つのだろうか。言い換えれば、私たちはどうすれば「孤独ではない」と実感できるのか。
2018年より、政府は「孤独・孤立対策担当大臣」を設置し、「望まない孤独」の解消を急務としている。孤独を、解決すべき問題とみなしている。
しかしその一方で、仏教や哲学という営みは、必ずしも孤独を悲観なものとして扱わない。人間はそもそも孤独な存在であると示し、自己の当事者性を端的に示す事実認識であると説く。もし孤独を問題として捉えるならば、まずはその言葉が持つ多義性を解きほぐし、なぜ問題と感じるのかを明らかにする必要があるだろう。
本号では、「ひとりであること」の意味を整理しながら、孤独をどう受け止めるかを探っていく。本号が孤独と向き合うための足場になればと思っている。
目次
▶︎寄稿
寂しさと孤独と、「弱いお節介」
——『ぼっち・ざ・ろっく!』、「日本怪奇ルポルタージュ」、『スマホ時代の哲学』(哲学者:谷川嘉浩)
孤独を持ち寄る(編集部:小西慶信)
▶︎連載
私道かぴの日々人其々
▶︎企画
孤独の周辺 Map
坊主が並んで(写真)
西蓮寺通信