【レポート】遊学生『ディア・ディア』(三豊 / 観音寺公演)

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2023年9月2日と3日の2日間、西蓮寺でお芝居が上演されました。企画・上演は、慶應大学と東京大学でそれぞれ主宰されているゼミによる合同プロジェクトとして発足した遊学生という団体です。三豊市の教育センター長を務める小玉祥平さんとのご縁で、西蓮寺の本堂をお貸しすることになりました。企画から上演に至るまでのお話を遊学生代表の増田さんに伺いました。(聞き手:西蓮寺編集部・小西慶信)

小西 まず遊学生という団体について簡単に教えてください。

増田 遊学生というのは、慶應大学と東京大学でそれぞれ主宰されている鈴木寛先生のゼミが母体となって発足したプロジェクトです。「学問と芸術の間」を考えることを標榜し芸術作品を制作し発表するゼミと、社会課題の解決に向けて様々なプロジェクトを推進できるプロデューサーを輩出することを目的に社会で活動する学生が集まったゼミです。なので演劇が専門ではないメンバーがたくさんいます。

小西 どんな学生が集まっているんですか。

増田 本当にバラバラですね。哲学を専門にしている人、社会学の人、経済学、法学、生物学、工学など様々です。そういう人たちが、例えば、ロボットの研究を活かしてたぬきのお面を作ってみたり、建築の経験を活かして舞台装置を考えてみたりと、それぞれが学んでいる専門の知見を活かしたり、あるいは活かせなかったりしながら、一つの演劇を作り上げています。

小西 ほんとにバラバラですね。そういう人たちが集まって、今回のように地方に赴いてフィールドワークを実施して、その経験を芸術作品として世の中に出すというプロジェクトはなかなかチャレンジングな体験ですよね。そういえば、以前は、兵庫県の豊岡市でも、同様のフィールドワークをされていたと聞きました。プロジェクトの内容についてもう少し教えていただけますか。

増田 そうですね。たとえば昨年度は兵庫県・豊岡市という町を訪れました。豊岡の柳行李(やなぎごうり)1職人が直面する「職人として技術を継承していくこと」と「食っていけないかもしれない職を継承していいのか」という問題を、芥川龍之介の小説『地獄変』を改作することで演劇に仕立て、上演しました。

小西 なるほど。その土地が抱える問題を皆さんの視点でもって作品へと昇華させているわけですね。

増田 とはいえ、私たちはまだ何者でもありません。しかし地方に来ると「東京から来た学生」という役割を自分から被ることができます。あるいは共同生活や劇作の中で、普段とは違う役割を担うことができます。「演じる」こととも共通しますが、そうして新しい役割を自分が全うすることを通して、新しい自分を探すことを目的に演劇をやっています。

演目『ディア・ディア』を企画するにあたって

小西 今回、三豊 / 観音寺で上演された『ディア・ディア』は、宛先のない手紙が大きな柱となって演目が展開します。どのような経緯でこの演目が生まれたのでしょうか。

増田 滞在期間中いろんな場所に足を運んだのですが、たとえば父母が浜のビーチクリーン活動、粟島の芸術家村の活動、各所にある酒蔵やガレージのリノベーション利用など、その土地にあるものをどう遺しどう使っていくかを考える。住民たちのそういう姿勢が印象的でした。そして、そうした遺産が「今生きている世代に託されているのだ」という自覚が多くの人に共有されていたよう思います。そこには遺されたものを使っていくことで、次の世代へ継承していくという意志があります。そういう人たちとの出会いの中で、三豊・観音寺という土地は人(特に先人)の意思を持って残されている土地だと感じました。
主人公の「郵便屋」は、そのように一時的に手紙を託され、配達します。手紙のない手紙を配達する郵便屋は、次の世代を探してこの土地を託していくこの土地の方々にすごく近いと感じ、脚本を書き始めました。

小西 公演が迫る8月には、20日間ほどお寺で合宿をしてこの街に滞在し、いろんな場所に足を運ばれていましたよね。そういえば毎晩メンバーの皆さんが町の温泉に通っていると地域の人たちに声をかけられることもあったとか。お芝居の脚本や演出を練っていく上で、三豊/観音寺で見聞きした経験やメンバー間で交わした会話の中で印象に残っているエピソードはありますか。

増田 届けることの難しさが場には充満していたように思います。
宛先が無いせいで届けられないことや、手紙のメッセージが誤って伝わってしまうことは、避けられないことです。そしてそれは、演劇をやっても、観客の皆さんにメッセージが上手く伝わらないこととも相似的です。伝わらないとしても伝えようとすること自体の尊さみたいなものは、私たちの演劇への思いとすごく近いように思います。
今回は西蓮寺さんと仁尾町の覚城院さんの二箇所で、二日間に渡って計四度開演させていただきました。印象的だったのは、最初の公演目の後に「全部はわからなかったけど、昔のことを思い出したよ…」と、自分の学生時代の思い出を懐かしそうに話してくれた方がいました。「全部はわからない」と枕詞をつけてくださっていましたが、今思うと、その方が昔のことを思い出してくださるということが、私たちの本当にやりたかったことだったのではないかと思います。掴みどころのない演劇を自分なりに捕まえて、その部分に思いを馳せるという演劇の見方は、まさに手紙を読み違えて読むことと一緒です。そういう意味で、その方にはちゃんと「伝わった」んだな、と嬉しくなりました。

公演を終えて

寺院の歴史に思いを馳せようとするとき、その捉え方には少なくとも二種類あるように思います。ひとつ目は、「○○年、△△によって、寺が建立された」「◯代目の住職のときに△△が起こった」というような叙述的(歴史学的)な寺史です。そしてもうひとつは、「小さい頃にお寺の銀杏の木に登ってよく遊んだ」とか「お寺で法事をしたとき足が痺れて人前で転んでしまった」というような、有縁の人々の間で記憶されている抒情的な寺史です。歴史学的寺史が誰にとってもわかりやすく明確である一方、抒情的な過去は多声的で物語性が強くなります。
今回およそ3週間ほど西蓮寺に滞在された10数名の学生さんたちは、ここで何を経験しどのようなことを感じたのか。それぞれ綴っていただきました。(小西慶信)

三輪香苗さん(演出)
お寺で生活をし、公演をするということ。
劇団員が撮った、西蓮寺の写真が好きだ。彼らはこんなふうにこのお寺を見つめ、そして共に生活をしていたのかと思うと、とても美しい気持ちになる。
ある日の夕方、美術と音響を担当していた奥田と野宮が、ほっこりした顔で、でもとても興奮した様子で話しこんでいた。何があったの?と聞くと、ただただ彼らは「映画 門前」を見たのだと答えた。詳しく聞くと、本堂で舞台の準備を進めていた時に、ふと本堂から外を見ると、開けていた障子の枠がまるで映画のスクリーンのように見えたらしい。その奥にある西蓮寺の門の姿に惚れて、その景色を「映画 門前」と名付けたらしい。時間が経つにつれて、色を変えてゆくその景色を、2人して何も言わずに眺めていたそうだ。私も、次の日に「映画 門前」を観に行った。稽古の疲れが吹き飛ぶほど、ただただ美しかった。こんな素敵な場所で生活をし、本番もできるなんて、なんて私たちは幸せなんだろうと思った。場所の素晴らしさだけではない。野菜や果物を差し入れしてくださったり、雨が降った日にはそっと傘を置いてくださったり、お返しできないほどのたくさんの愛をいただいた。最後に、西蓮寺さんに心からの感謝を伝えたい。本当にありがとうございました。また帰ってきます。

原嶋空さん(役者)
演劇の中で、郵便配達人の主人公は「届けることのできなかった」手紙を届けます。それは実際に宛先がないということでもありますが、「私たちの普段の生活においても、言葉が本当に伝わるなんてことがあるのだろうか」そんな普遍的な問いへ結びつきます。それでも主人公は信じることによって、手紙をこれからも届けていくのだと決意します。この構造は、演劇を行う私達と観客の関係性にも当てはまるのかもしれません。コミュニケーションの不可能性があり、それでもみんな言葉を紡ぐ。その営みを繋ぐ媒介としての「郵便配達人」は、劇の中だけではなく、劇を通して伝えたいことがある私達と観客を演技によって引き合わせる私でもあるのです。そのことに気付いてからは、「どうか、何かが、届いてほしい」と願いながらセリフを発するようになっていきました。内容そのものもそうですが、私たちがそんな風に渇望しながら表現するということ自体が見る人の心に響いて欲しいとも考えました。また、観客と演者が同じ高さにいる異質な舞台であることは、その視線や表情、うちわを扇ぐ仕草など、場の全てが劇に包括されてしまうような雰囲気を生み出しました。暑さによる一体感もあり、単なる自己表現や一方的な説明とも違う、相互のコミュニケーションが成立していたのです。劇中でついに手紙を届けられた時に、励ますように頷いてくれた人がいたことは、演じられる登場人物を超えて私自身の活力となりました。全てがそうであるかはわからないのですが、舞台とは単にストーリー(誰かの物語)が展開される装置ではなく、演者から発せられるものが観客に響き、伝承されて変容していくナラティブを生み出す装置であるのかもしれない、とも思いました。ここには書ききれませんが、三豊/観音寺のみなさんのあたたかさに触れ、とても学びの多い夏休みを過ごすことができました!

高荷洸星さん(役者)
私は役者として、今回の演劇において「演じる」とはどういうことだったのかを考えさせられました。
それはある映画監督が述べた「演じるとは代弁である」といった、特定の誰かをリプレゼントするのとは少し違う気がしました。たしかに脚本制作や役づくりの段階で三豊の雰囲気や関連するモチーフからインスピレーションを得ていましたが、それは「三豊/観音寺の紹介」というよりもむしろ「遊学生から見た三豊/観音寺像の提示」に繋がっていったと思います。私の中で、遊学生において演じることの持つ意味についてまだ答えは出せていません。ですが、演劇活動を通して変容したことを挙げるならば、それはお寺と私との関係性でした。住宅街にひっそりと佇んでいるお寺は、日常生活において強く意識されることはあまりありません。
お寺の本堂で芝居をするにあたり、その空間について身体でもって理解を深める必要がありました。椅子たちとふれあい、障子を開く力加減を知り、木の壁の隙間から光を見て、柱と梁を取り巻く空気を吸い込みました。約2週間もの稽古期間と2回の公演を通して、少しずつ、西蓮寺との関係を作っていくことができました。演技において、その関係性は時に想像力を効果的に刺激する方へ、時にぎこちなさを表出する方へ作用したと思います。やはり、お寺と繋がり一体となって作品を生み出すことの面白さと難しさを実感します。こうした気づきは、「演じる」というアプローチだったからこそなのではないかとも思います。公演を終えた今、これからは違う側面からもお寺についてもっと学んでいきたいと思うようになりました。

井嶋日菜子さん(制作)
私は自分が何者であるかについて考えたいと思っていました。そして、新しい場所を訪れたり、演劇をしたりすることは、それに役立つのではないかと思いました。
まず、私が香川を訪れたのは、私よりも先にこの活動に参加していた友人たちによって語られる瀬戸内海のイメージに惹かれたからでした。実際に訪れてみると、島や船が霞んでみえる瀬戸内海の風景や、それを囲む、急な坂と広い平地の陸地の風景は、まさに「おくゆかしい」ものでした。「奥行き」がしばしば遮断されているような街並みで普段生活している私にとって、その中で色々動いてみたくさせるような風景でした。
そんな風景の中で、父母ケ浜で泳いだり踊ったり、星空を眺めたり、お寺で風や畳を感じたり、様々な「体」験はその都度、私に新しい感覚をもたらしました。言葉にするのは難しいですが、その中で私は、普段の生活では忘れがちな自分の存在のリアリティを一部感じられたような気がします。
次に演劇や広報などに関しては、意見が分かれましたが、私は、自分たちが何者であるのかということを現すことが求められており、その中で、私自身も私が何者であるかを理解することにつながるものとして、みていました。例えば広報においては「東京の学生」であると伝えたり、ゼミの先生の名前を出して団体を紹介したりしましたが、表出された外面とあいまいな内面の間には差異が生じ、その違和感が、存在了解の契機になったのではないかと思います。しかしメンバーと今後も考えたいところです。
正直なところ、東京での生活に忙殺されようとしていますが、観音寺での貴重な体験を記憶して過ごしていきたいと思います。

  1. 衣類や書物などを運ぶ入れ物として古くから重宝されてきたのが柳行李。 ↩︎