仏教の基本構造
定期的に催している仏教講座の冒頭では、毎回簡単な復習の時間を設けています。もちろん、これまで講座で扱ってきた内容のすべてを概観することはできないので、仏教の基本教理(あるいはその勘所)を押さえることを目的にしています。この記事では、その冒頭部分を簡単に共有してみようと思います。
日本で生まれ育った人に馴染みのある仏教思想といえば諸行無常あたりがまず思い浮かぶと思うのですが、この無常や無我といった仏教の基本教説は縁起(因縁生起)を土台とします。縁起とは「ものごとが生じるにはその元となる原因や条件がある」という考え方のことで、これが仏教の基本のキです。
これには表と裏や親と子の関係性のように、一方の存在がそのまま他方を成り立たせているとった同時存在の因果関係のことを指したり、転んだから痛みを感じたというような時間的な連続関係にある因果のことを指すこともあって、ひとくちに「縁起」といってもいくつかの解釈があります。しかし、いずれにしても「すべての現象にはそれを成り立たせる原因や条件のようなものがある」という縁起観が仏教の基本です。
ではなぜ、この単純な縁起の道理が仏教において重要視されるのかというと、縁起のはたらきを見ることは、私たちが現実の問題や苦しみに直面したとき、その「苦」には必ず原因があると解決への見通しを立てられるからだと思います。問題を特定しその原因を解消できれば、問題や苦しみ自体が消失ししたり、あるいはそれまで問題だと考えていた事が問題ではなくなります。ときどき仏教のことを仏道というふうに表現することもありますが、それはこの見通しのことを道になぞらえるという発想からきているのかもしれません。
これが「仏教とは転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)の教えである」と言われる所以であり、仏道を歩むことが「己の苦(迷い)を打ち破っていくこと」であると言われる理由です。
さて、これを体系化したのがいわゆる四諦八正道と言われるもので、次の4つの道理(諦)を示した釈迦の教えです。一応ここでは辞書的な意味だけ紹介しておきます。
まず、私たちの生存の本質は「苦」(原語:ドゥッカ)であるという道理が説かれます(苦諦)。これは私たちが普通イメージするような楽の対義語としての苦とは少し違った概念で「不満足」とか「思い通りにならないこと」と訳されます。私が仏教を学びはじめた当初もっとも理解に困ったのが、この「苦」という概念でした。ここは仏教の人間観とも密接に関わるものなので、また別の機会に考える機会を持ちたいと思います。次いで、私たちが経験する「苦」には原因があり、それは渇愛と呼ばれるものであるという道理(集諦)が説かれ、次いで、原因を滅すれば結果である「苦」も消滅する(そしてそれが涅槃である)という道理(滅諦)が説かれます。そして最後に原因を滅するための具体的な八つの実践を示した道理(道諦)が説かれます。
ご存知の通り、仏教は時代とともに多様な解釈を許しながら伝播していったため、「仏教とはーーである」と一義的に説明することは望ましくないといいます。それでも仏教思想のあらましを理解するために、大局的なポイントを押さえていくことは有意義なことではないかと考えます。
小西慶信 / Yoshinobu Konishi
西蓮寺 所属。
1992年の冬に生まれ。最近お寺の中にひっそりと編集部を立ち上げ、仏教講座や『 i 』というマガジンの企画・制作を担っています。仏教は勉強中。