仏教は何を問題とするのか – 言語と物語が生み出す罠 –

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仏教は何を問題とするのか – 言語と物語が生み出す罠 –

仏教の特徴を表す「転迷開悟」や「抜苦与楽」という言葉には、「迷い(苦)を解決することが仏教の要である」というニュアンスが含まれます。もし仏教思想がそうした「解決」を目指すものだとすると、何を問題と捉え、何を救いと考えているのでしょうか。2500年前にブッダが抱いた問題意識と現代を生きる私たちはどのように交わるのか。秋田光軌さんにお聞きしました。

大阪にある浄土宗大蓮寺の秋田光軌と申します。今回、西蓮寺さんから「仏教は何を問題にしているのか」という壮大なお題をいただきました。私がどこまで十分にお応えできるか、力不足が否めませんが、個人的に思うところを述べたいと思います。

言語機能が生み出す物語

よく知られているとおり、基本的に仏教は「苦」の解決を目指しており、それを生み出す「執着」を手放すことが問題になります(ブームになった「断捨離」もその一環ですね)。さらに、2世紀から3世紀にかけてインドで生き、大乗仏教の祖と言われる龍樹(ナーガールジュナ)は、私たちが世界を認識するときに使う「言葉」が執着を生み出していると考えました。たとえば、家は木材やガラス、コンクリートなどが組み合わされてつくられたものですが、「家」という言葉で名づけることによって、私たちは家という「実体」が当然にはじめから存在すると思い込んでいます。しかし龍樹によれば、家とは、さまざまな材料が必要に応じてたまたま今は組み合わされているという「仮の状態」を指すにすぎません。言葉のはたらきによって、単なる「仮の状態」があたかも確固たる「実体」であるように感じられ、それが執着を固定化する原因になっているというのです。

さて、龍樹の時代から2000年近くが経ち、現代に生きる私たちはいまだに言葉の罠にはまっています。たとえば「好きな人と結婚したら幸せになれる」という言葉はどうでしょうか。合理的に考えれば、「好きな人と結婚したら幸せになれる」なんて保証はありません。子どもが生まれて心の調子を崩してしまう人もいれば、離婚して泥沼の裁判争いをつづける人もいる。生涯独身のままで、幸せに生きている人もいるはずです。ただ、「好きな人と結婚したら幸せになれる」という言説が、呪文のように繰り返し世の中に広まることで、なにか真実味があるような気もしてきます。もし、それを真実だと思い込み、執着してしまうと、なかなか結婚できなかったり、あるいは結婚してもあまり幸せになれていないじぶんのことを、必要以上に追い詰めてしまうかもしれません。

それ以外にも「母親とは~であるべきだ」「一人前の男は~でなければならない」といったような言葉は周囲にあふれています。おそらく人間は、わからない、先の見えないことに対して不安になる生きものなので、「こうしたら幸せになれる」とか「~べきである」とか「普通」や「常識」といった言葉を使って世界を断定することで、安心感を得られるのでしょう。私たちの世界認識にかたちを与えるこれらの言説を「物語」と呼ぶことにします。私たちは常に世間話やメディアを通して大量の「物語」に触れており、それらを意識的・無意識的に信じることで自らの規範としています。しかし、特定の「物語」にはまりすぎると、そのストーリーに沿わないできごとが人生に起きたときに、「不幸」「普通じゃない」と判定してじぶん自身を苦しめたり、あるいは他者を攻撃する原因にもなるのです。「物語」という視点から考えることで、仏教のいう「苦」が現代の私たちにも少しわかりやすくなる気がします。

物語と適切に関わるには

では、どうすれば「物語」と適切に付き合いつつ、じぶんらしく生きていくことができるのでしょうか。まず身近なところで有効なのは、読書を通して、じぶんで考える習慣をつけることかと思います。本を通して「普通」や「常識」とは異なる考えに触れることは、決して特定の「物語」が絶対ではなく、今のじぶんの価値観もいずれ変わりゆくということに気づかせてくれるはずです。とはいえ、最近ではじぶんの読むべき本もデータベースからレコメンドされる時代ですので、すでに特定の「物語」にはまっている人が異なる考えに出会うこと自体、なかなかむずかしくなっているのかもしれませんが…。

あるいは、じぶんで何かものを作る、イベントを作る、絵を描く、楽器の演奏をするなど、クリエイティブな芸術的経験もおすすめです。別にその道のプロになるわけではありませんから、ここで最も大事なのはテクニックではなく、「自分がどう感じるか」という実感や直観、楽しさそのものです。これらは社会生活の中ではほとんど重視されませんが、芸術的経験を通してそれらを見つめることで、社会で流通する「物語」とは異なる、じぶんなりの感覚を研ぎ澄ませていく機会になると思います(何かを鑑賞することも、こうした視点で行えば立派な芸術的経験になりえます)。

次に、やはり宗教の力にも触れておこうと思います。たとえば私は浄土宗の僧侶ですが、浄土宗のおしえでは「すべての人間は煩悩を抱えた悪人であるが、阿弥陀仏に対して心を込めて念仏を唱えつづけることで、誰でもいのち終わるときに極楽浄土に往生し、そこで仏に成ることができる」と伝えます。たとえ「普通」や「常識」には沿わない人生であっても、ただ心から念仏を唱えていれば、いつか必ず仏さまになれる。これも一種の「物語」と言えますが、社会でふだん採用されているそれとは明らかに異質ですよね。ここでは世俗の「正常と異常」「善と悪」といった区別が消え去っています。宗教のような別の「物語」を受け入れることで、社会の「物語」から距離を取り、相対的な立場に立つこともできるわけです。

ただ最後に気を付けておきたいのは、じぶん主体の「物語」をかたちづくろうとするこうした試みも、えてして独善的になってしまいがちであることです。結局「私の物語こそが絶対だ」と思った瞬間、人は再び「物語に沿っている/沿っていない」に従って他者の優劣を判別し、ときに人殺しを肯定するという間違いをも犯します。カルト宗教のテロ行為などが最たる例ですが、思想家や芸術家が戦争を賛美した例もあります(もちろん日本の仏教者も)。あるいはSNSをのぞいてみると、敵/味方に分断された不毛な言い争いが、毎日のように繰り広げられています。社会の「物語」に追従するわけでもなく、しかし常に「じぶんの考えは間違っているのかもしれない」と、内省を怠らないことが大事だと思います。

新型コロナや侵略戦争をはじめとして、現代はまったく先行きが見えず不安定な「VUCA(Volatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguity)の時代」だと言われます。神仏への信仰をほぼ失いつつある現代人は、どうしても安定した「物語」にすがりたくなってしまう。同時に、拠り所であったはずの「物語」が、さまざまな「苦」を生み出す原因にもなっています。このコラムは仏教そのものを伝える内容ではありませんが、仏教が問題にしていることをベースに現代の生を捉える、ひとつのヒントとして参考にしていただければ幸いです。

筆者

秋田光軌 / Mitsuki Akita
浄土宗大蓮寺住職
1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了(臨床哲学)。2016年から2019年まで浄土宗應典院の主幹を務める。仏教のおしえを伝えながら、死生への問いを探求する場づくりに取り組んでいる。