書評:わたしが怒らなければならないとき

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評者:私道かぴ

わたしが怒らなければならないとき

「誰かが何かに怒っているな」が増えた時代だと思う。

政治に対して、社会に対して、人に対して、絶えず人が人に怒り続けている。私たちの耳に届くニュースは、そのほとんどが「誰が誰に怒っている」「怒る火種はこれです」という情報の提供のように思えてくる。大変だなあ、もっと仲良くしたらいいのに、と思う。人が違えば意見が違うのは当たり前だ、そんなにカリカリしなくても、何とか折り合いをつけてやっていくことはできないものか…。

しかし、いま起っているのはそう簡単な問題ではないのだということを、この本は教えてくれる。なぜ今怒らないといけないのかが、実にわかりやすく書いてある。そして、怒らなければならないのは紛れもなくあなたなのだということも。

本著は次の四章からなっている。
「第一章:切り崩される学問の自由」
「第二章:文化芸術の自由は誰のためにあるのか」
「第三章:いま、声を上げる自由を」
「第四章:自由を扱う技術」

第一章では、日本学術会議の任命拒否問題を中心に、現在の日本の学問の自由の危機が語られている。一見すると「任命してもらえなかった人が怒ってるんでしょ」と片付けてしまいそうになるこの問題も、私たちの生活に地続きだということを教えてくれる。特に「学問の自由が滅びようが知ったことではない。私たちは、子どもにひもじい思いをさせたくないから、嫌な仕事でも睡眠時間を削ってやってきた。自分の好きな研究を朝から晩まで机の上でできるあなたたちに、私の気持ちなど分かるはずもない。」等の学者に対する実際の不満から始まる藤原辰史氏の文章は、一読をお勧めしたい。
また、「政府として直接の回答を出しづらい、扱いに困るような厄介な問題については、政府は日本学術会議にいわば下駄を預けることで落としどころを見つけることができていた」という日本学術会議の政治的な働きに言及している池内了氏の文章も、これまでの役割を知る上で参考になる。

第二章では、「あいちトリエンナーレ2019」から始まり、経済的生産性がなければ排除してよいのか?という日本の経済的発展重視の考え方への疑問、反知性主義にまで話が及ぶ。中でも「他者が何を命の次に大切に思っているかに思いを馳せるのがエンパシーです」という平田オリザ氏の文章が印象的だ。また、実際に表現者としての立場から思いをつづった小説家・桐野夏生氏の文章も、現場を想像する助けとなるだろう。

第三章、第四章では「自由」という言葉について更に深堀りした文章が続く。戦争や紛争の現場を研究する立場から「自由」を語る山崎雅弘氏、フェミニストの観点から「自由」について論じる上野千鶴子氏の文章など、きっと自分にも関係性の深い内容を見つけることができると思う。二十六名の論者が集ってできた一冊だからこそ、状況理解をより深いものにしてくれるだろう。

表現の自由も、学問の自由も、すべてはあなたに繋がっている。

あなたがあなたらしく生きる、ということは、あなたが自分で色々なことを選択して生きられる、ということだ。

ニュースは情報を簡潔に伝えるだけで、それがゆくゆくは何に対する脅威なのか、何に繋がっているのかまで事細かに説明してくれない。そこから先を自分で調べる権利さえもいつか「自由だった」と言わざるを得ない事態がやってきてしまうのではないか…そんな不安が胸をよぎる。そうなる前に、ぜひ「何が起こっているのか」「人は何に怒っているのか」を知る助けとして、この一冊を勧めたい。


私道かぴ / Kapi Shido
作家・演出家
人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇を得意とする。安住の地では、作家・岡本昌也との共同脚本・演出も行っている。2020年は無言劇『であったこと』、映像劇『筆談喫茶』など、新しい会話劇の形を模索する作品を発表。APAF2020 Young Farmers Camp 修了。身体をテーマにした戯曲『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に選出された。