評者:私道かぴ
『風をこぐ』
著者:橋本貴雄
出版社:モ・クシュラ
写真に言葉は必要なのか?
大学生の頃に所属していた写真研修会では、展覧会に向けて、学生同士がお互いの作品を講評する場があった。その場でよく話題に上がった指摘に、「写真に言葉は必要なのか?」というものがあった。
考えてみると、写真展には意外と言葉が多い。例えば、タイトル。次に、作品を説明したキャプション。読めばその写真を撮った状況や作者の思いがわかる一方で、写真のみを見ていたときとは何かが決定的に変わってしまう。ぼんやりとした光の中で花を撮った写真も、「近所の公園の花です」と言われるとそれ以上にならない。言葉がなければ、その花は天国の花にだって見えたかもしれないのに。
講評会の最後、誰かがつぶやいた「言葉にならないものを表現するから写真ではないのか」という言葉をよく覚えている。
『風をこぐ』という写真集は、まず表紙が印象的だ。公園だろうか、一面に雪の積もった広い土地の真ん中に、ぽつんと一匹、犬がいる。足はお姉さん座りのようにして、鼻をまっすぐ空に向けていて、あおーん、と鳴く声が聞こえてくるような写真だ。
ぱらぱらとページをめくると、表紙に写っていた犬の色々な表情が展開される。楽しそうな笑顔、悲しそうな横顔。遠くから、近くから。表情を追ってページをめくっていると、犬がいつのまにか歩行を助ける車いすのようなものを装着し始める。公園を歩く姿はまだまだ元気で、外を歩くことを心から楽しんでいるのが伝わる。後ろ脚を引きずるようにしながら、それでも勢いよく歩いているのだろう、ずいぶん遠くまで行っている写真もある。
微笑ましい気持ちで読み進めると、徐々に老いの影が見え始める。毛布にくるまっている写真がよく出てくるようになると、「ああ、もう最期が迫っているのだな」と感じる。犬がうるんだ目でこちらを見つめている印象的な写真があった。撮影者(飼い主)をじっと見つめる表情は何か言いたげで、胸に迫るものがあった。その後、もう犬の表情が写ることはなかった。骨壺の写真を差し込んだ後は、犬がかつて散歩した公園の情景が淡々と続く。犬の姿はないのに、読者はそこに走り回っている姿を見る。きっと、撮影者にも見えているのだろう元気な姿を思って、胸が詰まる。撮影者はこの時、一体どんな表情でシャッターを切っているのか。想像でしかない。想像でしかないのだが、その視線を追体験するような錯覚があり、一緒に過ごした犬をなくした喪失感が心に流れ込んでくるようだった。その余韻を残したまま、写真集は終わる。ひとつの生き物の生き様を、まるまる見せるような一冊だった。
この時点で十分に感じ入るところがあったから、本の後半に作者の日記が続いていると気づいた時、その先を読むかどうかを迷った。先の「言葉にならないものを表現するから写真ではないのか」という言葉を思い出す。ただ、この後にどのような言葉が続いていくのか気になり、読み進めることにした。結果的に言うと、文章もすごくよかった。淡々とした日記のようなものが続き、情緒を煽るような雰囲気もない。犬がどうやって撮影者と出会ったのか、どのような生涯を過ごしたのかなどが冷静な筆致でつづられている。確かに、写真だけを見ていた時よりも、言葉によって写真への理解がぐっと上がる感覚はある。犬が車いすを装着したのは老いのせいではなかったり、公園での散歩の様子がより詳しく述べられたりして、「なるほどそうだったのか」と思うことも多い。
しかし、それが決して「答え合わせ」に留まらないのだ。それは、撮影者が、被写体である犬との距離感を絶妙に保っていることが関係していると思う。べたべたし過ぎておらず、かといって冷たいわけでもない。「どこかに生きていた動物と、たまたま人生の一時を一緒に過ごした」というような、一定の距離を隔てた関係性だからこそ、読者である私たちにも、まるで「散歩中に出会った犬」という距離感で写真を見せることができているのではないか。
「言葉にならないものを表現するから写真ではないのか」
私はこの写真集に出会って、その言葉の意味を今一度考えるようになった。この一冊は、言葉がなくても成り立つ。しかし、言葉があってもより際立つ。この奥行きの深さこそが、写真表現のおもしろさなのではないか。写真を「写真集」という形で見る楽しさを、改めて感じさせてもらえる作品だった。
参照:版元サイト
私道かぴ / Kapi Shido
作家・演出家
人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇を得意とする。安住の地では、作家・岡本昌也との共同脚本・演出も行っている。2020年は無言劇『であったこと』、映像劇『筆談喫茶』など、新しい会話劇の形を模索する作品を発表。APAF2020 Young Farmers Camp 修了。身体をテーマにした戯曲『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に選出された。