書評:『あいたくて ききたくて 旅にでる』

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評者:私道かぴ

あいたくて ききたくて 旅にでる
著者:小野和子
出版社:PUMP QUAKES

あいたくて ききたくて 旅にでる

ある問題意識があって、数年前から一定期間、都市圏から離れた場所に滞在し作品を制作する生活を続けている。滞在の前に毎回必ず読み返すのが、この『あいたくてききたくて旅に出る』という本だ。著者の小野和子さんは「民話採訪者」という肩書を名乗っている。あまり耳馴染みのない「採訪」という言葉を使うのは、小野氏自身のある思いがあってのことらしい。

民話を語ってくださる方を訪ねて聞くという営みを、民話の「採集」や「採話」と言ったりする場合があります。ただ、わたしは、「語ってくださった方」と「語ってもらった民話」は、切り離せないものと考えています。だから、「採集」や「採話」という言葉は使いません。(本著より引用)

このように、小野さんは「ただ民話を採集する」という態度ではなく、「その土地で出会った、語り手の一人ひとりに向き合う」という姿勢で民話を集めている。よって、本著の語り口もそれぞれの民話と同じくらい(またはそれ以上に)、語り手の皆さんの生活や、人生に寄り添って描かれている。民話を聞かせてくれる方々の境遇が優しく丁寧に記されるとき、読者はまるで「お話をせがんで待っている」ような、どこかそわそわした気持ちになる。語り手はどんな風に生きて、どのように感じて、果たしてどんな物語を口にするのか。どきどきして待っている私たちに、本の中で紹介されるのは、例えばこんな方々だった。

七つの年に同じ村の金持ちの家に子守に出て、十六まで年季奉公をし、同じ年に山一つ越した集落に嫁いで、以後ずっと子育てや山仕事に追われる日々を送って来た女性。
大地主の家にやっとできた男の子だということで大切に育てられ、一家の長になっても、いまだに農作業はほとんどしたことがないという「変わり種」の男性。
秋田県境の集落でひっそりと暮らす、おじいさんと、戦争で亡くなった息子の嫁との二人家族。

このような人々が、ふらりと現れた民話採訪者にぽつぽつと昔話や、自分の経験を話し出す。ちなみに、訪れる小野さんの様子は以下の通りだ。

肩書も職業もない、スカートを履いた四十歳になろうとする女が、ノートを持ってふらりとあわられて、「子どもの頃に聞いて覚えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」と、唐突に言ってくるのを、人々は好奇の眼差しでは見ても、まともに相手にできない気持ちを抱くのは当然のことだと、わたしは思うのである。(本著より引用)

突然現れ、珍しいことを尋ねてくる女性に、人々はそれぞれの人生を物語る。ここに私はなんとも言えない不思議な感情を抱くのだ。

一人ひとりの物語は、「誰かに話すために取っておく」という風に準備よくできていない。まして、苦しい記憶や、自分の人生を振り返るような内容であればなおさらだ。その「準備できなさ」を差し置いても、ふと現れた見知らぬ人間に、つい話してしまう人間のおもしろさ。

そこで語られた個人の物語は、まるで語られるのを待っていたかのように感じる。誰にも言えずにとどまっていた物語は、稀有な存在によって突然開かれる。

都市圏以外の地域で創作を始めて、「道端で初めて会った方から突然人生の話を聞く」というようなことが増えた。そこでは私は紛れもなく「よそ者」で、その時、実は私は私ではない。この耳で物語を聞きながら、実はたくさんの耳で聞いている気持ちになる。そこには私だけでなく、多くの「この物語を聞くべき人」がいて、語り手が「本当に聞いてほしかった時」があったような気がする。だとすれば、私にできることはよそ者として、語り手の人生を丁寧に聞き、しっかりと覚えていることだと思う。ここではないどこか、私ではない誰かの分も。

そんなことを思いながら、私は今日もこの本を開き、少しの勇気をもらって閉じる。この本にはたくさんの物語がつまっている。ここには私の人生も、あなたの人生もきっとある。

参照:版元サイト


私道かぴ / Kapi Shido
作家・演出家
人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇を得意とする。安住の地では、作家・岡本昌也との共同脚本・演出も行っている。2020年は無言劇『であったこと』、映像劇『筆談喫茶』など、新しい会話劇の形を模索する作品を発表。APAF2020 Young Farmers Camp 修了。身体をテーマにした戯曲『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に選出された。