書評『サントリーバー露口12ストーリーズ+』

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評者:私道かぴ

サントリーバー露口12ストーリーズ+
著者:阿部美岐子
出版社:青舟社

経験したことのないはずの思い出

2021年の暮れに、「道後温泉クリエイティブステイ」というプロジェクトに参加した。これは様々な分野のアーティストを道後温泉に一定期間滞在させ、各々で散策をし、魅力を発信することを目的とした滞在型の企画だった。その際にたまたま足を運んだ松山の書店で、始めてその名を耳にした。

「サントリーバー露口には行かれましたか?」

郷土のことを知ることができる本を探している、と話す私に、書店の店主さんがそう言って一冊の本を差し出してくれた。それが『サントリーバー露口12ストーリーズ+』だった。聞くと、サントリーの角ハイボールを出すバーで、界隈ではとても有名なお店だという。全国各地から様々な客がやってきて、モダンジャズがかかる店内はいつもお客さんがたくさん入っているのだそうだ。

「ただ、この時世でしばらく閉まっているみたいだから、今日は行けないかもしれないね」

当時は新型コロナウイルスの流行に伴い、数々の飲食店が休業していて、この店も例外ではないようだった。そうなんですね、と相槌を打ちながら、手渡された本の表紙をまじまじと見る。そこには蔦で覆われたお店の外観が映っていて、なんだかおとぎ話の中に出てくる小屋のようだなと思った。どうやらここから徒歩で行ける距離にあるという。私はその本を購入し、お礼を言ってお店まで行ってみることにした。

うっそうと茂った蔦の絡まる建物は、間近で見ると静かな迫力があった。明かりがついていない玄関はしんとして、何とも言えない雰囲気を漂わせていた。多くの人がここへやってきて、この扉を開いたのだ。そんな歴史の重みが周囲に漂っているようだった。いつかまた松山に来た折には必ずここへ立ち寄ろうと強く思い、その場を後にした。

サントリーバー露口のマスターの訃報を知ったのは、2023年の終わりごろだった。新聞のお悔やみ欄で、その年に亡くなった方に文章を寄せているコーナーに、マスターの露口さんへの言葉を見つけた。9月に亡くなられていたそうで、お店のファンには相当な衝撃だったのではないかと思った。文章からも、いかにこのお店が愛されていたかが伝わってくる。お店は1年前には閉店していたようだ。私はついに一度も店を訪れることができなかった。

しかし、一度も足を踏み入れたことがないにもかかわらず、私はそのバーの内部を思い浮かべることができる。13席の品のいい四角い椅子が、カウンターに沿ってずらっと並んでいることを知っている。ラワン材でできたカウンターには、入り口から5席目あたりに凹みがあり、そこがマスターのグラスを置く場所だということを知っている。マスターがハイボールを作る際には、バースプーンを上下に動かすことを知っている。一度も行ったことのないお店のことをこんなにも細かく想像できるのは、間違いなくこの一冊があったからだ。この店の大ファンでもあるライターの阿部氏によって手掛けられたこの本は、お店がなくなった後も、その存在を広く世間に示している。この本のおかげで、お店の雰囲気を味わうことができなかった私も、どこか大切な店に間に合ったような、そんな気がしている。

ぜひまだ行ったことがない方は、『サントリーバー露口12ストーリーズ+』のページを開いて、いまもきっと人々の心のどこかにある、松山の一軒のバーに足を踏み入れてほしい。

参照:版元サイト


私道かぴ / Kapi Shido
作家・演出家・アーティスト
京都を拠点に活動する団体「安住の地」所属。身体性を強く意識した演出と、各地に実際に滞在し聞いた話を基に作品をつくる。近年はお祭りや養蚕、流域や団地など土地とのつながりの深いテーマで制作している。
身体感覚をモチーフにした戯曲『いきてるみ』で第19回OMS戯曲賞佳作を受賞。脚本・演出を担当した短編演劇『アーツ』が第16回せんがわ演劇コンクールにてオーディエンス賞を受賞。