書評:「祈り」を肯定する人々

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評者:私道かぴ

「祈り」を肯定する人々

私の祖母は、よく祈る人だった。

家には「神さん」と呼ぶ神棚があって、祖母は一日二回、起床後と就寝前に毎日その前に立って長いお経を読んだ。聞き取れるか取れないか程度の小さな声で唱えられるそのお経は、それでもはっきりと夢うつつの幼い私の耳に届いた。いつもは優しい祖母の声が、低く落ち着いたものになる。不思議だった。まるでその時だけ違う人になってしまったようだった。

祖母にはまた、神社に行って祈る習慣もあった。小さな身体で、時間をかけてゆっくりと通い慣れた道を歩いた。膝が痛いと言いながらも決してやめなかった。暑い日も寒い日も同じように賽銭箱に十円を入れて祈り、その後はぐるっと一周してその神社内のすべての祠に挨拶して帰るのがお決まりのコースだった。

そんな祖母は何かある度に「祈っといたからね」と言った。私の受験の時には「祈っといたから大丈夫やからね」と言い誰かが旅行に行く時は「無事に帰って来られるように祈ったからね」と言う。私はそう言われる度に、根拠のない安心感に包まれた。「そうか、祈ってくれたのなら、きっと大丈夫だ」と感じた。今振り返れば、「神様が願いを叶えてくれるだろう」という楽観的な感情ではなく「祖母がこれだけ私のため思ってくれているのから、きっと大丈夫なのだろう」という、その行為自体に感じる安堵だったのだと思う。

しかし、当たり前に続いていた祖母の祈りは、突然ぱたっと止んでしまう。脳梗塞で倒れたのだ。私はその時初めて、人には「祈ることしかできない」という状況があることを知った。何か大きなものに向かって祖母の快方を祈った。しかし、その度に心細さを感じた。手を合わせて願うことしかできないなんて、なんと無力なことか。祖母はこんなに心細い行為をずっと続けていたのかと思い、胸が詰まった。

『祈りの現場―悲劇と向き合う宗教者との対話』という本を手に取ったのは、丁度そんな時だった。この本には、「祈ることしかできない」という状況に立たされた人たちがたくさん登場する。

東日本大震災で大切な人や家、故郷を失った人たち。平成25年の台風で、伊豆大島土砂災害に遭って様々な苦境に立たされた人たちなど、それぞれが抱える困難は計り知れない。しかし、この本はあくまでその人々にフォーカスを当てたものではなく、人々の祈りを傍で見守り、寄り添った人物にインタビューした一冊だ。

例えば、津波で壊滅的な被害を受けた地域の寺の住職。遺体安置所で読経をすることで、祈りというものの力を強く感じたという。

人間ていうのは究極的に、本当の土壇場では祈るしかない。祈りしかない。祈ることで、安堵が生まれるというか、救いが生まれる。

また、本の著者もこうした行為について言及している。

ご遺族が自分たちだけで祈るということもありますよね。でも、やはり本人だけでは不安で、その祈りが本当に死者に届いたかどうかがわからない部分がある。だから、祈りを導いてくれる人がいてほしいと思う。あるいは、誰かが一緒に手を合わせることで、祈りを肯定してもらいたいと思う。

私は、この本を読んで祈りの概念が変わった。これまでは、祈りは、孤独な行為だと思っていた。しかし、気が付かなかっただけで、そこには実はたくさんの肯定があったのかもしれない。

例えば、日常的に祈る行為を誰も咎めない関係性。そして、「祈っといたよ」という言葉を受け入れること。その祈りを信じること。地域に寺や神社と言った「祈りを行う場所」があることも、大きく言えば祈りの肯定に繋がっていると思う。

祖母の祈りが途絶えた後、私はその時間がどこかに消えてしまったようで悲しかった。何か、頼りにしていたものがぷつんと切れてしまったような感覚だった。しかし、今ならわかる。祈りは決して消えない。「誰かが、誰かを思って祈った事実」は確かにあって、それは人が信じている限りずっと存在する。あの時の祖母の祈りは、私がそれを信じることで続いていくのだ。 この本には、祈りに寄り添う人々の例がたくさん登場する。様々な困難がある社会で、こうした「祈り」を全面的に肯定する本は救いだと思う。読後にはきっと、自分の周りにあった祈りについて考えることになるだろう。


私道かぴ / Kapi Shido
作家・演出家
人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇を得意とする。安住の地では、作家・岡本昌也との共同脚本・演出も行っている。2020年は無言劇『であったこと』、映像劇『筆談喫茶』など、新しい会話劇の形を模索する作品を発表。APAF2020 Young Farmers Camp 修了。身体をテーマにした戯曲『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に選出された。